女性と鏡とドレッサー
「鏡は女の命」以前はこう言われたものです。
卑弥呼の時代から、いや水面に映る我が顔を見た時から女性と鏡との関係が始まっています。
神器とも言われていた当時の鏡は銅などの金属を磨いて作りましたが、身分の高い人しか持つことは出来ませんでした。
江戸時代に入り箪笥などの家具を武家や商家の女性が持つようになると同時に鏡台も普及してきました。
しかし、一般化してくるのは明治以降国内でガラスが生産されるようになってからのことです。
東京を例にとると、明治30年代三越や高島屋に家具売り場が創設され洋家具が展示され、さらに大正に入って、白木屋、松屋、高島屋などが新規大型店を開店し、家具の大衆化が進み箪笥、茶箪笥などの収納家具は一般化してきました。
しかし鏡はまだまだ高価でした。
昭和に入り、工作機械なども国産品が作られコストが下がり、耐久消費財の生産販売量とも上がって来ましたが、日中戦争太平洋戦争と進み家具の製産は落ち込んでいき、とうとう敗戦に至って大打撃を受けてしまいました。
戦後働き手が戻った製産現場や販売店ではもの集めに苦労しながらも活発な活動を開始。
大都市では多くの人が家も道具も失った状態でしたからものを作ればどんどん売れる時代でした。
戦前の鏡台は丸や長方形の枠に後ろ側から鏡をはめ込んでいたものを、縁付の枠を廃し、前面から鏡をあて金具(爪)で止める方式にして生産性を上げコストを削減。安い価格で鏡を提供したため爆発的な売れ行きを示し、その後の団地鏡(小幅の鏡台)ブームが始まりました。
その後我が国の右肩上がりの経済成長に乗って高級品が売れ始め、ガラスの品質向上と共に鏡の耐久性が格段に良くなりました。もちろん、現在では鏡は世界トップの品質です。
鏡台の生産は静岡市と徳島市に集中しています。
静岡の家具の起源は徳川三代目家光の時代に浅間神社を造営するため全国から職人たちを集めたためその後、定住した人たちが下駄、雛具、漆器などの木製品を作り始めたといわれます。明治に入り洋家具の普及し始めると西洋鏡台(洋鏡)も作られました。昭和40年代後半に入ると鏡台の主流は洋鏡からドレッサーに移り変わりました。
徳島鏡台の起源は戦国時代から続く阿波水軍の船大工がその後、木製品を作り始めたのが始まりといわれています。
東名の中間という立地の良さを生かし、サイドボード食器棚始め総合家具産地となった静岡に対し、ツキ板のあと張り工法という手間のかかる方式でオーダーメイド対応とし、広島県府中市福山市など婚礼家具産地のタンスに合わせて作るのを得意としています。
ただ近年、各産地は品質的に向上しデザイン的にも産地の特徴より個性が引き立って来てます。
お客様のニーズに合ったデザイン機能性をもったアイテムをお選びいただくのが一番です。
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